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田舎暮らし


私の住んでいるところは見借(みるかし)というところで、田んぼや山に囲まれたレッキとした田舎。 小さい頃は見借の子供は田舎者として皆バカにされていた。自分も野生児というあだ名で呼ばれていた。実家(隆太窯)もそうだが、monohanakoもその見借村の集落からも更に外れて一件だけぽつん、と軒を構えたところにある。日本の農耕民族的視点からみると、「外れ者」もしくは「もの好き」としか思えようのない場所にある。

夜中、タクシーや代行などで他人の運転にお世話になると運転手さんから「いやぁ、こんなところに一体誰が住んでるのかと思ってましたよ!」とか 「僕、夜一人でこの道運転するのはちょっとコワイですね、、、」とかちょっぴり本音を漏らす人もいたりする。

Pも田舎育ちなので二人とも自然に囲まれた生活の方がしっくりするし、刺激を求めて都会に出てもその空気に疲れてしまう体質なのだが、田舎暮らしで毎日三食自炊の生活もさすがに疲れや飽きを感じることもあり、たまには外食してみようか?と思っても唐津には(ここ)か(あそこ)、しかオプションはなく、あー、だったらうちで食べて飲んだ方が安いし美味しいし、、、という不発のフラストレーションが溜まってゆく…こういう時は都会は選択肢が沢山あって羨ましいと思う。

でも春になると田舎に住んでいることに優越感をいだけるようになってくる。 今年は遅咲きではありながらも、全国が桜モードになりつつある。 都会では花見の陣地取り戦争が凄まじいらしいが、田舎には昭和のバブル時代に意気込んで作られたけど今は忘れられたような公園がいくつもあり、そこで誰にも邪魔されずに花見を独り占めすることが出来る。自分の敷地内に山桜も見れる。鶯も鳴いている。

田舎では息抜きといえば散歩くらいしかできないのだが、散歩に行く道のほとんどが山菜ロードと呼んでいいほど、ふきのとう、つくしにワラビなどの山菜が採れるので春は散歩に繰り出す頻度が増える。近くの小川にはクレソンもある。春が進むにつれてタラノメ、筍、山椒と春のグルメのオンパレードが楽しめる。山菜だけは店で買うもんじゃない、と変なプライドがあり、そう心に決めている。やはり自分の手で採ってこその美味しさだと思う。一度東京の紀伊国屋で5本くらいに束ねられたクレソンが300円くらい(いや、もっとしたかな?)で売られていたのを見てたじろいでしまった記憶がクレソンを摘むたびに蘇る。田舎ではクレソンはただで取り放題。新鮮なクレソンの密集をみるととても裕福になったような気持ちになる。と同時に、山菜を摘むとありがたい、自然の恵みに生かされている、という謙虚な気持ちにもなれる。歳をとったのか、最近よくそう思う。自分で野菜を育てたり猟をする人はもっとそういう気持ちが強いのではないかとおもう。


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先日、久しぶりに唐津のとあるレストランにいったら韓国の方が大勢いらっしゃってました。私の後ろから聞こえてくる会話がなんとなく九州弁に聞こえてしまい、そうかそうか、『おいしかヨ〜』といっているのか、とか、はたまた『ナマダヨ〜』と聞こえたり。勝手に彼らの会話を想像して楽しんでおりました。そういえば、以前五島に行った時も、フェリーの中で大きな声で話しているひとたちがいて、ほぅ、韓国の人も五島へいくのだな

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