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物との出逢い

先日、フミィさんのギャラリーで素敵なスプーンに出会ってしまった。ベトナムの水牛の角でできた、長さは15cmくらいのもので、匙の部分は大きく平べったく、しかも先っぽがちょっとフラットに削られており、スプーン特有のカーブもあまりなく、小さいしゃもじのような形なのでスープなど汁物系をすくうのにはまず向かない。サーバー用のスプーンにしてはちょっと短い気がする。見た目あまり実用的ではなさそうだ。どちらかというと、その隣にあったスープ用のスプーンの方が私たちの生活に“より求めていたもの“だったはずなのだが、私も相方もこの短くて太っちょの匙の方に心を奪われていた。造形が面白いし、水牛の角のそれぞれの模様、質感や手に取った重さが美しかった。

「物は出会いだからねえ」そう言って果てしない物欲を正当化する言葉をたまに耳にするが、自分も同じ言葉で自分の中の大蔵大臣をなだめていた。そして心の片方で、果たしてこのスプーンは必要なものなのか?という合理的な理性も働いていた。

すると相方が、「ヨーグルトを食べるスプーンにしたら?」という素晴らしいアイデアを持ちかけたので、「そ、そうだ!」と膝を打った。私たちは朝のヨーグルトを漆のボウルで食べているのですが、その時に金属製のスプーンだと堅くて漆を傷つけそうだし、今あるべっ甲のスプーンではボウルに対してちょっと大きいのでなんとなくしっくりいかない気持ちをずるずると引きずっていたのでした。

翌朝早速ヨーグルトを食べてみましたが、なんとも言えないまろやかな口当たり。金属製の冷たい触感とも、木製の軽さとも異なる、そのしっとりとした重さは滑らかに口の中へ入ってくる。そして、たとえば、しゃもじにご飯がへばりついているのをそのままかぶりつくのは人に隠れてやらないといけませんが、これは形はしゃもじと似ていていながらも立前上スプーンなのでその行為も堂々とやってのけられる。朝から心浮き立つ初体験となりました。

はっきり言って、このスプーンは世界一食べやすいスプーン、とは言いがたいスプーンです。でも自分がこのスプーンに近付くように、寄り添えるようにしたい、と思わせるような物なのです。「実用」の範疇以外に「物」としての魅力があるのです。

私たち日本人は(と言っていいのか?) 「用の美」という教えの元に育っているので、たとえどんなに美しく、心を奪われる「物」があっても、その中に「実用性」を見出さないと満足しない習性があって、どうにかしてそれが「用」を足すであろう可能性を見出した時に「ヨシ」と納得してしまうフシがあるのです。私はそんな心の動きが結構好きです。お茶の世界では「見立て」と言われたりしますが、自由な心がクリエイティブな発見に繋がります。

同時に、物の善し悪しは「合理性」だけでは決め兼ねるところもあるのではとおもいます。私も「物」を作る人間ですが、使い易い、どんなお料理にも合う、以外に、先ず魅力を感じさせる物を作りたいと思っています。

物資で溢れてしまった世の中では、「もう、これ以上必要以上の物は増やしません」「シンプルに、エコに生きましょう」みたいなことをよく耳にしますが、実用性だけを重視した生き方で心は本当に満足するのでしょうか?人間の心は常に変化しています。日本のような四季の変化のある環境ではなおさらのこと。だから変化にもしなやかに対応できる柔軟な心を育てることも大事なのではないかと、匙になった水牛の角に想いを馳せるひとときでした。


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先日、久しぶりに唐津のとあるレストランにいったら韓国の方が大勢いらっしゃってました。私の後ろから聞こえてくる会話がなんとなく九州弁に聞こえてしまい、そうかそうか、『おいしかヨ〜』といっているのか、とか、はたまた『ナマダヨ〜』と聞こえたり。勝手に彼らの会話を想像して楽しんでおりました。そういえば、以前五島に行った時も、フェリーの中で大きな声で話しているひとたちがいて、ほぅ、韓国の人も五島へいくのだな

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