私の恩師、マルコム ライトはその昔、陶芸を勉強する為に唐津へ来て、私の祖父や叔父、父たちの元で修行した。私が生まれる前のことだ。今でこそ、陶芸や日本文化を学びに日本へやってくる外国人もそう珍しくない時代になったが、金髪の青い目をしたアメリカ人の家族がモンペ姿の日本人に混じって生活をするということはとても異質で、アラスカに来てしまったコアラのような不思議な存在だったと思う。
当時の日本は高度経済成長期でもあったがまだまだプリミティブな習慣も存在していた。民芸運動や桃山復興などの影響がまだ漂っている時代だった。イケイケドンドンでプラスチックや新しい工業製品が生産される一方、日本の昔ながらの素朴な生活文化を重んじるカウンターカルチャー的な動きもあった。私の祖父(12代中里太郎右衛門)は桃山時代に、一代で途絶えてしまった唐津焼きを数百年経った昭和の時代に再復興させた事で評価された。他にも日本各地で似たような動きがあり、いろんな人が人間国宝になったりした。お陰で「陶片発掘は当時の流行になり、各地の山々がモグラに荒らされた畑のような姿になってしまった。(想像です) また、陶片発掘検査にちょっとオチャメないたずらを仕掛けるようなおじさんも現れたりした。*永仁の壷事件
そんな時代に唐津に居合わせたマルコムもまじめにみんなと一緒に沢山の陶片を掘り起こした。そして修行を終えた後、唐津で習得した技術のみならず、風呂樽半分くらいの大きさの木箱に一杯になるほどの陶片も持ち帰った。ヴァーモントに根拠をもち、唐津の登り窯と同じ設計で窯を構えた。
そしてその後およそ50年間、彼は彼なりの作品を作り、陶芸の道を歩んで来た。人として真摯であることを実証し、食と音楽とアートをこよなく愛し、困った人は助ける慈悲深い人間でありながら他人には一切面倒を掛けない、『まじめ』を絵に描いたような人生を送った。そしてこの夏陶芸家としてリタイアすることを決意した。
彼には二人の息子がいるが、二人とも遠方に暮らし陶芸とは無関係な仕事についている。私を実の娘のように可愛がってくれ、陶芸関係のものは是非とも私に譲りたいと言ってくれた。 彼が陶片を所有していることは今までこれっぽっちも知らなかったし、正直、古唐津の陶片には大して興味もなかったけど、地下の物置に埃まみれになっている陶片と捨てるに捨てられないで困っているマルコムの眼を目前にしたら断りきれなかった。『嫌いなものは庭に捨ててもいい。君の眼で気に入ったものを選んで後は自由にしてくれ。』陶片の箱を私に渡した瞬間、ああ、これでスッキリした!という開放感に満ちた笑顔が印象的だった。
メーン州に戻り(おそらく5時間の運転中に陶片は更に割れて数的には増えたと思う)棚からぼたもち状態で受け取った陶片と向き合う私。はて、どうしよう。骨董マニアか歴史調査の人には宝物なのかもしれないけれど、ほとんどががらくたのようなものにしか見えない。とりあえず、埃を洗い流してみる。もっとこういうのが好きな人は山ほどいるだろうに、とも思いながら。
昭和時代の桃山ブームは現在の若い人たちにも熱く引き継がれているようだ。二番煎じ的ではあっても、いつの時代にも懐古主義というか、昔ながらの生活や文化に憧れている人がいて、無主張の綿のシャツともんぺ姿で古民家に住んでみたりする若者がオシャレ〜的なムードが今の日本には漂っている。ちょっとやぼったい感覚が現代の、 洗練され過ぎた都会の暮らしに疲れた人たちの心をくすぐるのだろう。
うーん。けどこれも400年も前に存在した私の先祖のものかもしれないしなあ、、、リスペクトせねばなあ、陶片を洗いながら複雑な思いが交差している。皿は窯のスペース倹約の為に重ねて焼かれ、しかも全部くっついてしまったので結局5枚全部損失、、、というのや、釉薬も半分以下しかかかっていないし、高台も削られていなかったりで、いい加減さもここまでくればあっぱれだぜ!と思えてくる。けど、確かに、何の計算もされていないナイーブな形、遊び心とも感じられる、ちょっととぼけて憎めないあどけなさが良かったりもする。
人間で言えば、倹約のつもりで素うどんにしたのに、結局財布ごとうどん屋に忘れてしまうような、そういうタイプ。確かにそういう気質は(これを唐津気質と呼んで良いのかも疑問ですが)400百年以上経った私のDNAにも健全に引き継がれているような気がします。
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