一生自分とは無縁だろう、とくくっていたものに手をつけてしまった。
昨年、友人に誘われてお家元のお茶会に行ったことが引き金となったのだが、
この歳になってお茶をちゃんと勉強してみようかなと思い始めた。
ゴルフよりも先にお茶を始めた自分を少し誇らしげにおもう。
それまで自分は『茶道』に全く興味が無かったわけではない。
ずっとアメリカにいたせいか、逆に日本文化に目を向けるようになり、大学時代に出会った岡倉天心の『茶の本』には強く感銘を受けた。
禅の影響を受け、芸術面でも精神面でも研ぎすまされたお茶の世界に惚れを感じていた。ただ、それとは矛盾した精神をお茶の世界に垣間みるのもなんとなく私が茶の湯を遠ざけていた理由でもある。
でもなんの経験もなしに、よくわからないままでなまじっか判断するのもよくないと思い始めた。
『おもてなし』という心、その心をどう形にするか、ということに興味を持ち始めた上でお茶から学べる可能性は無視できないのではないのか、たとえトラディショナルな茶事は自分ですることがなくとも、なにかのヒントを得ることができるのではないか、と思い始めた。
知人に誘われて稽古の見学に行ってみた。
その時はちょっと固めのジャケットにネクタイをしていたからか?イケメンに間違えられてしまった。(よくあることだが)アクシデントでおばさんにモテてしまった。
神聖なるお茶室でおばさんの気をそそらせてはならぬ、とおもい、次の稽古からは着物で行こうと心を決めた。
お茶をやるからには着物で行くべきだ。がさつな身のこなしが少しは和やかになるかもしれない。母の着物が沢山あるし、形見になってからどうしていいかわからないよりも今のうちに練習すればなんとかなるはずだ。お茶の稽古と着付けの練習が同時にできるならば一石二鳥ではないか。
だけど今は母の手無しでは着物はまったくのお手上げ状態なので結局は二石一鳥みたいな気はしてるが。
お茶室に入るとまずはお床のものを拝見する。
ここでぎゅっと精神を統一しなければいけない。その会の主旨、亭主の思い入れが凝縮されているからだ。
以前、お茶に無知だった知人がお茶席で『オトコのものを拝見』といわれておもわず耳を疑ってしまったけど、それがどういうことを意味するのかがわかって赤面した、というエピソードを思い出して吹き出さない様に気をつけている。
こんな具合だから淑女になれるのはほど遠い気がする。
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