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ちいさな心の居場所


『君にとって宝と言える、人に自慢出来るコレクションがなにかあるか?』ある人に聞かれてぐっと答えにつまった事を覚えている。

自分でまだちゃんとした稼ぎがあったわけでもないし、コレクションだなんて!と思うのも無理もない20代の頃。でもその問いにしばし考えさせられたとおもう。

自分にとって大切な『もの』とは何か?

それは自分自身を知ることにも繋がるのかもしれないとおもった。

音楽は好きだったけど、レアなレコードやCDを視聴用と保存用と2枚ずつ買うようなマニアックなコレクターでもなかった。

そういえば、当時付合っていた友だちからも『花子の部屋はすっきりしていて、たまに部屋の片隅にフシギな面白いものも転がってるけど、なんだかおちつかない気がする』と指摘されたことがある。家庭的な情緒とは無縁だったのだとおもう。特に若い時は一所に落ち着かず、いろんなところを点々としていたので、必然的になるだけすぐ身軽に動きやすいようにしていた。小さいころからスナフキンのような人生を夢見て生きていたので、『旅人』のライフスタイルがすっかり身に馴染んでいたのだとおもう。

でもその生活にだんだん寂しさを感じるようになってきていた。

気付かぬうちに、だんだんと自分の生活に欠けているものを求め始めていた。

そのような想いがきっかけで集めだしたのは『箸。』

旅先なんかで気に入ったお箸に出逢った時に一膳ずつ求め始めたのが、今では楽しいコレクションとなった。

我家ではパスタでもカレーライスでも箸で食べる習慣がある。

考えてみると、ナイフで肉を引き裂き、フォークで突き刺して食べる西洋スタイルは野蛮なような気もする。それに、陶器の上でギシギシと金属製のフォークを使うのもなんだか器を傷つけそうで返って神経を使ってしまう。だから箸の方が何となく気軽に使える気がする。

野菜炒めやビーフンなんかをわしわし食べたい時にはベトナム、ハノイで手に入れた箸。先っぽがぼったりしてちょっとやぼったい感じもするが、逆に気が引けない安心感がある。はたまた、ちょっと背筋を正して折敷でも使って食べたい時は利休箸。無駄の無いシンプルな形といい、邪魔しない重さといい、すうっと手に馴染んでいくところは心が浄化される感じになる。京都で手に入れた黒檀のものは毎晩の定番となっている。繊細さもあるが、同時に力強い頼もしさがあるので夕食のちょっと重めのムードにぴったり。

その日の気分や料理によってぴったりフィットする箸を選ぶのもテーブルセッティングをする時の楽しみでもある。そしてその箸に合う箸置きをコーディネートするのもおもしろい。


わが家には箸置きも種類が沢山ある。自分で作ったものから買ったもの、ガラス、金属性のもの、そして海岸や川辺でひろった名もない石ころなどもある。

箸置きは箸の帰る場所。一呼吸おきたい時に箸が戻る場所として居場所を与えてくれる大事な役目を果たしてくれる。言ってみれば家のようなものだ。別に帰る所が一つでなくともいい。ちいさな別荘が沢山あるとおもえば楽しいではないか。

そうやって小さな贅沢を楽しんでいる。

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